スペインは歴史の街。紀元前3,000年ころアフリカから渡ってきたイベロ族、その後フェニキア人、北からのケルト人、ローマ人、ゲルマン諸族、そしてイスラム勢力の拡大とともにやってきたベルベル人。多様な民族の混合は、長い歴史の中でこの国独特の文化・風俗・習慣を生みだし、人間模様を織りなしている。
このようなスペインの多元的であり多様な歴史は、今でも街のあらゆるところに壮大なドラマを秘めて残されている。スペイン各地に残されている『古城』を訪ねると、この国のもつ入り組んだ複合性を垣間みることが出来るでしょう。

第24城 ペドラサ・デ・ラ・シエラ 後編
(セゴビア県)

●建設年代:14〜15世紀
●保存状態:個人の住居となっているため、比較的保存状態は良い。
●見学:1時間ごとにガイド付きで見学可。ただし住居部分は不可。
●みどころ:このお城は20世紀初頭、のスペイン絵画シーンをリードした巨匠、イグナシオ・スロアガ(1870−1945)が買い取り、アトリエとして使っていました。塔の内部は、スロアガの小さな美術館になっています。


 マクシミリアン1世没後の神聖ローマ皇帝選挙において、カール5世(スペイン王としてはカルロス1世ですが、スペインでは一般的にカルロス5世と呼ばれるので、ここでもそれを採用)に敗退した対立候補が、ヴァロワ家のフランソワ1世(在1515−47)。カルロス5世は、母フアナ<狂女>1世からスペインとモ発見モ間もない新大陸、およびナポリ、祖父マクシミリアン1世からドイツ、ネーデルランドなどを継承していましたから、ヴァロワ朝のフランスは、四方をハプスブルグ家の領土に囲まれていたことになります。フランソワ1世は、ナバラやネーデルランドに度々侵攻を繰り返し、そして、1524年、カルロス5世が派遣した神聖ローマ軍により占領されたミラノなど北イタリアを奪回すべく、自ら軍を率いて北イタリアへと進軍します。カルロス5世にとっても、北イタリアは北欧の領土とナポリとを繋ぐ拠点。ミラノを奪ったフランソワ1世はパヴィアを狙うも、翌1525年2月、ここで神聖ローマ軍に敗れ、王自らが捕虜となってしまいました。 フランソワ1世はマドリードに連れてこられ、ここで和平協定。イタリアとネーデルランドを放棄し、ブルゴーニュを譲渡することに同意させられ、自身の解放と引き換えに2人の息子、フランソワとアンリ(後の仏王アンリ2世当時7歳)を人質として要求されます。とはいっても、騎士道精神の名残なのかどうか、この和平協定にフランソワ1世は署名することを強いられなかったそうで、これでは単なる口約束。人質と引き換えにフランスに戻ったフランソワ1世は、すぐに協定を破棄して、1527年再びミラノを占領、南下してナポリに迫ります。ここで再びカルロス5世軍に敗退。再び、イタリアとネーデルランドを放棄することを要求されますが、度重なる戦争のため常に金欠状態にあったカルロス5世はブルゴーニュ譲渡を断念し、その代わり、人質の解放に多額の身代金を要求しました。カルロス5世に苦汁を舐めさせられてばかりのフランソワ1世。両者の抗争はまだしばらく続きます。 さてさて、ペドラサの出番。2人の高貴な人質が一時期幽閉されていたのが、ペドラサのお城、というわけです。1526年5月、彼らは、市壁に開く唯一の門を通ってやって来ました。当時の村の人々にとっては、大層なイベントだったことでしょう。彼らがここに幽閉されていたのは5ヶ月間。その後、ビリャパンド城(サモラ県)、ベルランガ・デル・ドルエロ(ソリア県)、カスティルノボ(セゴビア県)などに逗留後、身代金と引き換えに1529年フランスへと帰って行きました。 ペドラサ城と村の間には広々とした空き地があります。現在は週末になると観光客の車がひしめき合っていますが、偶然に空き地になったわけではなく、おそらく、16世紀初頭に大砲の射程距離を考慮して、防衛のために建築物を排除したたものと考えられます。

小林真紀

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