スペインは歴史の街。紀元前3,000年ころアフリカから渡ってきたイベロ族、その後フェニキア人、北からのケルト人、ローマ人、ゲルマン諸族、そしてイスラム勢力の拡大とともにやってきたベルベル人。多様な民族の混合は、長い歴史の中でこの国独特の文化・風俗・習慣を生みだし、人間模様を織りなしている。
このようなスペインの多元的であり多様な歴史は、今でも街のあらゆるところに壮大なドラマを秘めて残されている。スペイン各地に残されている『古城』を訪ねると、この国のもつ入り組んだ複合性を垣間みることが出来るでしょう。

第23城 トゥイ 後編
(ポンテベドラ県)

●建設年代:(主に)12世紀、17世紀
●保存状態:城壁の塔は姿を消してしまったが、城壁はだいぶ残っている。
●アクセス:ビゴからA52〜A55で約30km
●周囲のみどころ
カテドラルは必見。12世紀前半の建設だが、13世紀にゴシック様式の建設部分が加えられたのをはじめ、後の改築の跡も多い。要塞のような外観で、胸壁や石落としといった防衛設備が至る所に見られる。特に、ソトマヨールの塔は、これだけで要塞になりそう。トゥイからC-550を西へ30キロ弱。ミーニョ川河口のスペイン側、サンタ・テクラ山(A Guarda)からは、大西洋とミーニョ河畔を一望できる。山頂には、紀元前1世紀頃のケルト民族の集落跡もあり、約1,000に及ぶ住居跡が発掘されている。

 ミーニョ川など、スペインとポルトガルの国境にある河川の両岸には、合計40以上の城壁があるそうです。中世から近世にかけての国境紛争の名残。その中には、函館の五稜郭のような星形をした城郭、バレンサ・ド・ミーニョ(ポルトガル)など、近代的なお城もあります。
 レコンキスタの完了とともに継続的な戦争のなくなったイベリア半島中央部とは異なり、海岸線や国境沿い、あるいは海外の植民地では軍事的な必要性から、かなり遅くまで城壁が建設されていました。中世には領主の住居で政治的・経済的な役割を果たしていた城は、以後、国家規模の防衛システムに組み込まれ、純粋な軍事施設となっていきます。
 新しい武器の開発と防衛施設の考案(ここでは築城技術の進歩)は、常にイタチゴッコ。15世紀、大砲の使用が一般的になり、それまでの垂直に建った高い城壁では太刀打ちできなくなると、幅の広い堀に囲まれたどっしりとした陵堡(りょうほ)が建設されるようになります。16世紀には城郭の角になる部分に外側に大きく張り出す円形の陵堡の建設が一般的になっていましたが、20年代にはとがった菱形をした陵堡が出現。その後、大砲の射程距離が伸びるとともに、菱形や三角形の陵堡が郁江にも巡る城郭(陵堡型城郭)が建設されるようになります。つまり、バレンサのような城を見たら、その地方は16世紀以降も何らかの紛争がくすぶっていた、ということ。
 フランス国王ルイ14制に仕えた軍事技術者、セバスティアン・ヴォーバン(1633〜1707)は、陵堡型城郭を発展させ、しかもそうした城の攻略法を考案する、なんていうイタチゴッコを自分でしてしまった人です。バレンサの城郭は、このヴォーバンの築城案に沿って建設されたもの。ちなみに、五稜郭はオランダの築城理論書を参考にしていますが、そこに書かれていたのが、まさにヴォーバンの築城案だったのだそうです。
 バレンサの城塞は、1660年代に建設が開始されました。1578年からスペインに併合されていたポルトガルは、1640年に反旗を翻し、ブラガンサ朝の成立とともにスペインから独立。スペインとポルトガルとの構想は1668年まで続き、バレンサの城塞はこのときに、ポルトガルの国境北部の防衛を固めるために建設が始まりました。18世紀初頭のスペイン王位継承戦争で英国と組んだポルトガルはハプスブルグ側につき、再び国境線が動揺。おそらくこのために、対岸のトゥイにも18世紀前半に新しい城塞の建設計画がありました。が、国境線も落ち着いて計画は未遂に終わり、こちらは中世の町であり続けています。よかった、よかった(あくまでも私個人の好みですが)。


小林真紀

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